読ミ書キ年表

◆1958年

盛夏、まだ野原の広がる東京・杉並に生まれる。最後の将軍の玄孫(ひ孫の子)であるらしい。が、華族制度の廃止により広大な家屋敷は取り上げられ、金銀財宝(そんなもの、あったかどうか知らないけど)もとっくに消え失せ、父方の祖父母を含めた家族5人でのつましい借家暮らし。唯一憶えている「家」を感じさせる物は、氏(うじ)を彫ったモノサシだけ。といっても、モノサシ自体は木製のどこにでもあるような代物だったから、なんの価値もないのだけれど。

 

◆1961年

父、遁走。祖父、病にて死す。家出をしていた祖母、戻る。という絵に描いたような没落ぶり。が、美貌の楽天家である祖母と、おっとりのんきな母の間で、幼いあたしは案外楽しく暮らしていたような気がしないでもない。すぐ近くに3つ年上の従兄弟が住んでいて、件(くだん)のモノサシを振り回しチャンバラごっこをしたりして、まるで兄弟みたいにいつも一緒に遊んでいた。

 

◆1962年

身のまわりに常に絵本があったことは確かなのだけど、何を読んでいたのか定かではない(この頃のことは定かでないことばかり。すでに夢ウツツの片鱗が)。よく晴れた日の午後、ひとり勝手に「初めてのおつかい」を決行する。行き先は交通量の激しい幹線道路沿いの文房具屋さん。ノートが欲しかったのだ(たぶん)。母が真っ青な顔をして、あたしを探しにきたのを憶えている。

 

◆1963年

まだまだ野原だらけの世田谷に転居。母とふたりきりの静かな生活。祖母は、ひとり小田原へ。子どもには理解不能な事情があったらしい。とは言っても、別に祖母と母の間にいざこざがあったわけではなく、この後もあたし達オンナ3人の不思議な縁(えにし)は続いていく。この祖母にまつわる物語は、涙あり(あんまりそうは思えなかったけど)笑いありの波瀾万丈オンナの一生として書くつもりなので、ここでは割愛。いずれにしても祖母はたしかにイイ女でありました。


この頃から病弱で熱を出しては寝込むことが多かったため、幼稚園も習い始めたバレエも休んでばかり。昼日中、布団にもぐって寝ている短髪のあたしに、本屋のおじさんはいつも「坊や、また風邪かい?」と声をかけていくのだった。そういえば昔は本屋さんが配達にきてくれていたっけ。本が友だちになったのはこの頃から。ディズニーなどのカラフルな絵本よりも、なぜか日本の昔話が好きだった(怪しげで哀しげなものに惹かれるタチであったらしい)。

 

熱に浮かされて自分が『はちかつぎひめ』になった夢を見た。『三年ねたろう』には、泣いた。

 

◆1965年

区立小学校入学。1年の担任はユミコ先生。白いブラウスにプリーツの紺色ロングスカート、長い黒髪、赤い唇。若く美しい先生はどこか官能的なヒトだった。学校で見た(たぶん)アニメ映画『白蛇伝』の妖しさ(やけに色っぽかった)に魅了される。『ドリトル先生』に恋をする。グリム童話やアンデルセンをなんだか怖いと思いながら読み耽る(すぐに夢に見てうなされた)。

 

『えんどうまめの上のおひめさま』にいたく感激し、布団の下に白粉花の種を置いてみたが、ぐっすり熟睡。翌朝、布団の裏には白い粉がはみでたぺしゃんこの種がぺったり貼りついていたが、縁側の向こうにぽいと放って、なかったことにした。

 

◆1967年

初めての学芸会。最終稽古の日、憲兵役のあたしは「近頃は取り締まりが厳しいもので」という台詞を「きびしまりがとりしいもので」と言い間違え、笑いを取る(そういう場面じゃないんだが)。が、本番は少しもあがらず。人見知りで口数が少ない子どもだったくせに(だからこそ?)、舞台に立つと別人になれるのが嬉しかった。

 

母方の祖父の臨終に立ち合い、生と死は「ふすま一枚の差」でしかないことに衝撃を受ける(なんのことやら)。『小公女』や『若草物語』などのいかにも少女らしい物語を読む一方、シートン動物記、ファーブル昆虫記がやけに好きだった。夢ウツツに拍車がかかる。マンガ月刊誌『りぼん』の愛読者となる。

 

◆1968年

東京郊外へ転居。通学路は畑の中の一本道。運動場は土煙。なんてとこに来ちまったんだ、と茫然としたのも束の間、すぐに野山を駆けまわる野生児と化す。「サインはV」に魅せられて、バレーボールチームを作る。と同時に長年の病弱ぶりが影をひそめる。

 

担任は、ぽんぽこ狸のような風貌のおじさん先生。「書くこと読むこと演じること」が異常に好きで、年中作文を書かされた。そのおかげで市の作文コンクールのトロフィーを多数手にしたあたしは、何を血迷ったか「卒業文集」の「将来の夢」に「作家」などと書いてしまう。

 

この頃、家の本棚にあるオトナ向けの本を片っ端から開いていた(『大地』とか『暗夜行路』とか『樅の木は残った』とか)が、はたして理解していたのかどうか(その証拠にほとんど内容を憶えていない)。好きだったのは、やっぱり『あしながおじさん』や『赤毛のアン』。年相応のえせ文学少女。

 

◆1971年

小高い丘に幼稚園から大学までが点在する私立校の中等部に入学。男子はブレザーにネクタイ、女子は私服。昨日まで土にまみれ野山を駆け回っていたあたしは、小公女のような装いの同級生達にカルチャーショックをおぼえる。人見知り、弱気の虫がぶりかえし、目立たない真面目な子どもに成り下がろうとする。

 

部活(と言っても授業の一貫としての)は文芸部。星新一と宮沢賢治をこよなく愛す(どういう取り合わせだ)。そのせいか、書いていたのはSFもどきの童話(短絡的)。小学校の恩師ぽんぽこ先生が亡くなる。

 

◆1972年

生まれて初めてラブレターをもらう。「結婚を前庭につきあってください」。赤ペンで添削して返す、なんていう洒落っ気はもちあわせていなかった。運動系の部活も必須科目になり、バレーボール部に入る。相変わらず人見知りの強い大人しい生徒だったが、コートの中では別人に(多重人格気味)。晩秋、伯父が事故死する。五木寛之の『ソフィアの秋』にはまり、彼の著作を片っ端から読む。ほんとの意味でオトナの小説を読みはじめたのはこの時からかも。

 

◆1973年

バレーボール部のサブキャプテンに就任(役目は体操の号令をかけるだけだったけど)。クラス対抗英語劇「むじな」にて町娘Aを演り(台詞はたった2つだけ。By the way…なんとかかんとか)、ファンレターなるものをもらう。年の暮れ、従兄弟が事故死する。去年亡くなった彼の父親が、連れて行ってしまったのか。

 

文芸部合宿(宮沢賢治の故郷岩手にて)に行き、創作発表会にて文芸部大賞を受賞し(と言ったって、部員20数名の中でのこと)、顧問教師から「わら半紙に手書き」の賞状を頂く。味なことやる渋い先生だった。そういえば恩師のぽんぽこ先生とよく似た体型をしてたっけ。宮沢賢治熱、再燃。

 

◆1974年

エスカレーター式に高等部入学(なのに中等部の卒業時、友人達と大泣きした。あれはいったい何だったんだ)。時はアイドル全盛期。友人とふたり、ある日偶然生アイドルに遭遇し、興奮したあたし達はこの日から「校外活動」に勤しむことになる。

 

必須科目に「自由研究」という部活のようなものがあり、「菓子部」を選択する。お菓子を作るのが好きだったのだ。バターと砂糖の匂いにまみれつつ、人気絶頂の落合恵子の詩に触発され、詩のやうなものを書き始める(テーマはもっぱら「恋」)。が、愛読書は『明星』『平凡』(アイドル雑誌)

 

◆1975年

学校をさぼって「銀座NOW」を見に行ったのがバレて担任に呼び出される。保護者面談にてその事は親に伝わったはずなのだが、母はなぜかそのことについて意見したりしなかった。おっとりおとなしいくせに、変に豪胆なところもあったりして、娘のあたしから見てもよく分からないヒトであった。

 

友人達とは毎日顔を合わせているくせに、交換日記をしたり手紙のやり取りをしたり。家に帰れば、詩のやうなものを書いたり、好きな歌の詞の書き写したり。とにかく日々鉛筆を握りしめていた。遠く離れた友との手紙の文面は、やけに文学的だったような気が。この頃敬愛していたのは、寺山修司。さもありなん。

 

◆1976年

高等部の学園祭にて、「菓子部」主催の「喫茶室」を開店する。学園祭の準備に熱中するうちに「こっちもけっこう面白いかも」とハタと気づく。それまで、校外で知り合ったオトナ達や他校の友人とばかり遊んでいたので、校内にいるときはいつもウワノソラだったのだ。目からウロコが落ちるのと同時に「校外活動」は終息に向かう(相変わらず短絡的)。

 

相も変わらず鉛筆を握りしめながらも、読んでいたのは、寺山修司、宮沢賢治、エミリー・ディキンソン。誰もが詩人になる思春期の頃。

 

◆1977年

相変わらずエスカレーター式ではあったけれど、早く仕事に就きたいという思いがあったので短大に進む。が、4年制に進んだ友人達とて同じ敷地内にいるのだから、遊び仲間には事欠かず。時代のブームは、サーファーにディスコ。週に3日は海へ通い、残りの4日はディスコに通う。お気に入りは、ヒトの少ない千葉の海(へそまがり)と、子どもの少ない(自分だって子どもだったくせに)渋めのディスコ。読むことも書くことも、すっかり忘れてしまっていた。あ、でも「POPEYE」や「Fine」は読んでいたっけ。

 

◆1979年

出版関係・カキモノ関係に就職すべく、和文タイプまで習得したというのに、なぜか全てご破算にしてオトコと暮らしてみたり(どうしてそうなるかな)。山あり谷ありどころか、谷底を這い回る日々。七転び八起きどころか、七転八倒の日々。このあたりの事はカキモノのどこかに現われてくるはずなので、割愛。本を開く時間も余裕もなく、ただただボブ・マーリーを聴いていた。

 

◆1983年

ようやく社会人としてヒトリダチ(遅い)。時はバブル最盛期。無謀に手を広げる知人縁故つながりで、さまざまなシゴトに就く。受付、事務、アパレル、西洋骨董、飲食業…。別にシゴトが嫌だったわけでも、続かなかったわけでもなく、ただそういう時代だったのだ。「♪24時間働けますか」と唄いながら腰に手をあてリゲインを飲みほし、ほんとに24時間(いや、18時間くらいか)働いていた。と言いつつ、恋も遊びもフル稼働(いつ寝ていたんだか)。

 

この年から、読書熱、再沸騰(いつ読んでいたんだか)。森瑤子、瀬戸内晴美(寂聴)、筒井康隆、井上ひさし、その他なんでも。砂漠をさまよう旅人がアオシスにたどり着いたかのように、喉を鳴らして本を読む。

 

◆1990年

すべてのシゴトをやめ、20代後半から半共棲していたオトコ(ミメオである)との本格的な(?)ふたり暮らしが始まる。勤めにも行かずにゴハンが食べられるということがなんだか不思議で申し訳なくて、それなら家事のプロになろうではないかとひとり意気込む。日々家を磨き立て、手芸からパン作までありとあらゆることをやっていた。料理も懐石料理からフレンチまで何でも手を抜かず作っていたっけ(今のズボラぶりからは信じられない)。

 

小池真理子、篠田節子、宮部みゆき、大沢在昌、逢坂剛。ミステリー、サイコサスペンス、ハードボイルドをむさぼるように読んでいた。

 

◆1996年

機が熟したってことなのか、入籍。ハワイにて挙式。何がどうあろうと「成るように成る」。人生っていうのはそんなものかも、としみじみ思う。家族親族を率いてのウェディングツアーは、とにかくもう本当に大変だった。自分のことなど構っていられなかったが為に、挙式のヘアメイクに泣くことになる(酔っぱらった狸のような顔に、アラビアのロレンスみたいな髪)。

 

ミステリー熱が鎮まり、無節操な乱読時代に突入。赤川次郎も谷崎潤一郎もレイモンド・チャンドラーも、薬の効能書きもスナック菓子の裏書きも、文字が書いてあるものならなんでも可という活字中毒。

 

◆1998年

すっかり忘れていた「将来の夢」を、ふいに思い出す。しかし何をどう書いていいのやら。で、カルチャーセンターの文章講座の門を叩く。エッセイストでもある女性講師に小説を書くことを勧められ、ミメオまでもがそれに賛同し、あたしは「マジですか」とあたふたしながらも、ようやく(遅すぎ)「将来の夢」に向かって歩きはじめる。といっても小説を書き始めるのはもう少し後のことで、もっぱらエッセイを書いていた。

 

新聞の投稿欄や雑誌等々に採用されるも、相変わらず何をどう書けばいいのやらと悶々とする。雑誌「TiLL」の選者・詩人の井坂洋子氏から頂戴した言葉(プロの物書きになれると思う、というような)に勇気を得て、志を強くする。その井坂氏の詩集を読み「ホンモノとはこういうことか」と打ちのめされる。

 

エンタメも純文も随筆も詩集も絵本もコミックも、と、際限のない乱読。魚住陽子、山本文緒、柳美里、久世光彦、庄野潤三等々の本に初めて触れてハマル。新刊が出ると即座に買いに走ったのは、小川洋子、村上春樹、小池真理子、川上弘美、江國香織。

 


◆2000年

 

WEBにて、田川未明(或いは田川ミメイ)という名で書き始める。 ソニーマガジンズが「ブリジット・ジョーンズの日記」映画化を記念して、期間限定日記サイトを開催。「ランキング上位者の日記が本にまとめられる」という特典に引かれ、WEB日記を3か月間書き続ける。オンデマンドの先駆けとも言えるその本はどこか教科書みたいな作りだったが、それでもやはり嬉しかった。それとは別に自分の日記「夢ウツ日記」をまとめて本にする。

 

前年、作詞家松本隆氏のサイトにて歌手「クミコ」を知り、その類い希なる表現力に惚れ込み夫婦揃ってライブに通い、なぜか急速に親しくなる(後から思えば出会うべくして出会ったような。以来、彼女は我が夫婦にとって唯一無二の友である)。

 

活字中毒に拍車がかかる。子どもの頃に読んだもののよく憶えていない小説や、いまだ手つかずだった文豪たちの小説をじわじわと読みはじめる。中でもお気に入りは谷崎の「細雪」。即買いの作家は、変わらず(以降、定着)。WEBに書くにしても「書き捨て」感覚になってはならぬ、と、編集者が掲載作品を決めるサイトを選んで投稿することにする。

 

◆2002年

ブログの前身であるような(個人頁を持てて好きな時に好きなように書ける)テキストサイト「ゴザンス」にて気ままに書き物を始める。3月14日ホワイトディ、そのゴザンスから出版の話しを頂く(最初は詐欺かと疑うも、自己負担一切なし、全面的にバックアップしますという有り難いお申し出だった)。4月から作品の書き直し・推敲・校正を始め、ようやく9月に発売。

 

10月、拙著をお送りした久世光彦氏から電話を頂き、心臓をばくばくさせる(この後、久世さんは電話魔と知る。本当にマメな方で、お忙しいのに時間を割いて会って下さったり、よくお電話を頂戴しました)。

 

この年は、義父の逝去、夫の退職(かねてより念願の)、新しい暮らしのための家探し、生まれ育った東京からの転居、そして短編集『溺レルアナタ』の出版、と「もう何がなんだか」という1年だった。保坂和志氏の小説にはまり、氏の開催する「オトナの遠足」(および宴会)に夫共々参加するようになる。

 

フリーペーパー「ゴザンスマガジン」にて「オトナの童話」シリーズ(掌編小説)連載。コラム・レビュー等掲載。文芸雑誌「ゴザンスマガジン2002・winter」に短編「プリムラ・ジュリアン」掲載。

 

◆2003年

WEBでのヨコガキのカキモノと、それとは別にタテガキのカキモノを、こつこつとマイペースで書き続ける。次の本をと言われつつ、作品の振り分けに迷いつづける。某作家氏と密会中、ぱくぱくもりもり食べていたら「それくらいにしといた方がいいよ」と忠告される。作家も見た目が大事、と(とほほ)。

 

慌ただしかった前年の読書時間を取りもどすかのように、とにかく何でも読む。好きな作家に角田光代、井上荒野が加わる。「ゴザンスマガジン2003・summer」に短編「つゆ草」掲載。

 

◆2004年

業を煮やした編集者から、強攻突破策が提示される。WEBのカキモノをまとめてMOOK本にしましょう。そりゃ無謀ではと躊躇しつつ、打ち合わせるうちについノッテしまう。が、なにしろコンテンツが多いMOOK本。慣れない「編集」に右往左往しながら作業に明け暮れ、対談、インタビューを行い、あらたな書き下ろしを2本。それとは別にタテガキのカキモノをいくつか書きつつ、某出版社に出向いたりなんだり。みっちりと書き続けた1年。

 

10月「田川未明の詰め合わせMOOK『ミ・メディア』」刊行。この年読んだ本の中で印象に強かったのは、伊坂幸太郎「オーデュポンの祈り」、梨木果歩「家守綺譚」、小川洋子「ブラフマンの埋葬」

 

この年の2月、短編小説「天糸瓜」が小説現代新人賞最終候補に。が、あえなく撃沈。(ちなみにこの時の新人賞受賞者は「朝倉かすみ」さんでした。選考委員のおひとり椎名誠さんとはこの後ご縁がつながり、椎名さんの大ファンであるミメオはうはうはと喜んでおりました)

 

◆2005年

前年からのワーカホリック気味な心身を修正すべく、てくてく歩いて海に行ったり、ベランダからぼんやり空や雲や江ノ島や富士山を眺めたり、喫茶店で本を読み耽ったり(椎名誠ブーム再来)。とはいえ夜更けには相変わらずPCに向かい、夜明けまでキーを打つ。が、やはりここらでちょっと軌道修正、タテガキのカキモノをメインにするという本来のカタチに戻そうかと思いはじめたところに、公式WEBの新規開店案がもちあがる。ちょうどいい区切りになるかも。

 

WEBのカキモノを縮小することを念頭にコンテンツを打ち合わせるうちに、「ミメオさんにも何か書いてもらえれば」という案が持ち上がり、近頃めっきり腕をあげた我が家のシェフ(主夫)にも一枚噛んでもらうことにする。そうと決まれば一念発起、ずっと気がかりだったWEBの整理にとりかかる。

 

小池真理子、三島由紀夫を再読。この年の活字中毒収穫物は、椎名誠「犬の系譜」、ブローティガン「西瓜糖の日々」、湯本香樹実「西日の町」。そして年末。ようやく公式WEBの新装開店と相成ったのでありました。

というわけで。
今後ともどうぞご贔屓に。

 (*この年表は旧公式サイトオープンに際して掲載したものです)